石見神楽(いわみかぐら)−島根県浜田市 石見之國伝統芸能−石見神楽公式サイト−

黒塚

黒 塚(くろつか)

熊野、那智山の東光坊(とうこうぼう)の高僧、阿闍梨祐慶大法印(あじゃりゆうけいだいほういん)が剛力と修行の旅の途中、那須野ヶ原を通りかかり、九尾の悪狐が人々に害を与えているのを聞き、人々のために、この悪狐を退治しようと出かける。一夜の宿を借りるが、そこの女主人=悪狐に化かされて法印は逃げ去り、剛力は食われてしまう。それを知った弓の名人、三浦之介、上総之介により退治される。
この舞は、剛力と法印や宿の主人との方言など交えたユーモアのあるやりとりと、妖女が悪狐に姿を変え法印を追い廻すところに他の舞にない魅力がある。
「むつの国那須野ヶ原の黒塚に 鬼すむよしをきくがまことか」
「山伏の持つべきものは袈裟ころも 法華経山の百八の数珠」

 この演目は、能楽「安達原(観世流以外の曲名は「黒塚」)」で著名な鬼女と、「殺生石」の玉藻前の2つの伝説を続けたもので、能楽の直接的影響が特に詞章の面に強く現れている。


能『黒塚』の舞台は奥州の安達原(現福島県二本松市)。熊野の僧が、開国行脚の旅に出掛け、安達原まで来て、荒野の一軒家に宿を借ります。家の主は中年の女で家の中には、枠枷輪(わくかせわ)という糸繰り道具があります。僧たちが珍しがると、女は旅の慰めにと使って見せてくれます。糸を繰りながら、女は、糸紡ぎの労働にこと寄せて、生きるつらさを嘆きついには泣き崩れます(糸之段)。
やがて夜は更け冷え込みが増したため、女は客僧たちのため薪(たきぎ)を取りに出掛けます。その際、閨(ねや;寝室)を覗いてくれるなと言い置いて行くのですが、見るなと言われると見たくなるのが人情。僧の従者が閨の戸をそっと開いてしまいます。すると中には幾多の死骸が数知れず、天井に届く高さまで積み上げられていました。
さては、いにしえの人が「安達の原の黒塚に、鬼こもれり…」と詠っているのは此処のことかと驚き、脱兎のごとく逃げ出します。
約束が破られたことを知った女は、鬼女の本性を現し、恐ろしい形相で一行を追いかけてきます(早笛)。
「いかにあれなる客僧止まれとこそ。さしも隠しし閨の内を。あさまになされ参らせし。恨み申しに来たりたり」
僧たちは、五大明王に一心に祈り、辛くも明王の繋縛に絡めとります。鬼女は猛り狂うのをやめ、浅ましい己が姿に我に立ち帰り、足もとも弱々しく夜嵐の中に紛れて姿を消してしまいます。

●殺生石

昔中国や天竺で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が、遣唐使に紛れ込んで日本に渡来した。
この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え、鳥羽院の寵愛を受けて玉体に近づき、いよいよ日本の国を亡ぼそうとしたが、時の陰陽師・安倍泰成(泰親とも)にその正体を見破られ、調伏の祭壇から離脱、那須ヶ原へと逃れて来た。
その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えたので、朝廷は三浦介、上総介の両名に退治を命じる。狐は犬に姿が似ていることから、百日間犬を相手に弓の練度を上げ(犬追物の始めとか)、遂にこれを退治した。
ところが、妖狐の執心はなおも那須野に残り、毒気を放つ毒石となって人畜に害を与え続けた。「殺生石」と呼ばれるようになったこの石には近寄ることを禁じられたが、長年の末に会津示現寺の開祖・玄翁和尚により教化。払子によって破砕され、ようやく毒気も少なくなった。岩を割るための大槌が「げんのう」と呼ばれるのはこのことが由来である。

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